弱者ということについて考えた。

あいかわらず、バイト探しの日々である。
午後からの仕事でときどき伺ってる現場の人もいろいろ気に掛けてくれて、あの店はどうとか、あの業界はどうとかアドバイスしてくれて、芯から心配してくれるので、早いところ仕事を見つけて、安心して現場に入れるようにしたい。それで、なにか一つでもお手伝い出来ることができたらなーと思うばかりである。

2日ほど前にも面接に行って来たのだが、打てば響くという感じではなくて、さすがにこれだけ不景気だと事業というのは慎重にならざるを得ないのは解るのだが、たがいに探り合う感じはあるわけで、あー壁はあついなあ……と。まあ、こういう積み重ねで仕事を探すしかない。駄目なら駄目で、頓着せずに前に行かないと色々とまずい。

そういう日々の中、世間のニュースで特にイラッとしたのが五体不満足の乙武さんの不倫事件で、次の参議院選に立候補する予定だったらしいが、今朝のニュースでそれがなくなったと報じられていた。
森はもともと、福祉とかヴォランティアとかいう方面に馴染みがなくて、どっちかというと、やったことには金銭で評価が当たり前の職人の世界から出て来たものだから、対極に位置する価値観なんだけど、それを切り離して考えても、妙にイライラする。なんでかなーと思ったら、乙武さんのほうが、圧倒的に社会的に強者だと思うからなのね。結婚し、子どもがいて、不倫するヨユーがあり、経済的にも自立してて、知識人の層にいる。チーム乙武だってある。
まさに貧すりゃ鈍するで、自分が落ち目なだけあって、焼きもちを焼いてるらしい。

しかしですよ。森には手足があり、考えたり読んだり教えてもらったことを、ダイレクトに試すことが可能なわけですよ。一般的に、インプットするだけじゃあ学問は駄目よといわれていて、それを頭脳明晰らしい乙武さんがどうやって聞いていたかはまあ、想像するだに地獄だろうなあ。

私はこうなのに、相手はどうだとか、
相手はこれがないけど、自分にはこれがあるとか、
不毛だが、考え出すと止まらない。焼きもちおそるべし。

でもある程度考えてみると、弱者と言うも、強者というも、比較する対象があるが故のことで、その基準だって、自分よりも英語ができるとか、指先が器用とか、リズム感が素晴らしいとか、金回りがいいとか、細分化可能なコンプレックスでさ。
だいたい、現状くらい落ち目になってくると、だんだん周りが見えて来なくなるというか、相手が抽象的なものになって霞んでくる。つまり、自分自身しか世界にいなくなる。

かくして、今を最弱の自分とする。
そこから、(さっき細分化で出て来たコンプレックスの)一個でも英単語おぼえるとか、かっこよくエスパニョールを呟けるとか、ギターを弾いてスムースにコードチェンジ出来るとか、そういうすごくささやかな前進だけが最弱状態から自分を救ってくれると思う。

そういう作業を、考えてみたら今までも節目ごとにやってきたわけだけど、今回もどうにか自分でやろう、やるしかないんだなと……今日は考えたでござる。くぐるたびにハードになるわこれ。
たぶんそれで、また友達をなくすんだろうなと思うけど、まあそれはそれで仕方ない。

よっこいしょーである。




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