相模原に帰ることにした。

鈴鹿の生活を引き揚げて、相模原に帰ることにした。

一大決心だが、このまま鈴鹿にいても沈没する。
奈良に帰るか、相模原に帰るか、どっちにするか考えたけど、仕事がありそうな相模原にした。

8月におかんが大病をして、一方私と言えば、仕事という仕事が連続で駄目になっていってて。自分の老後の資金はおろか、家族がなにかあった時に駆けつけるだけのお金もなくなるのではないかという体たらくであった。
まあ入院費などは、おかんやおとんが自前で何とかしたし、むしろ私の何倍も収入があるわけで、その辺の心配は変なのだけど。

いつか思い出しながらぽつぽつ書くかもしれないが、鈴鹿の土地柄と自分の仕事のやり方というのが、まったくマッチせず、頑張るほど軋轢がでるという有様で、鈴鹿を離れるという決心をするまでは結構なストレスが掛かってたと思う。
まあ、病気や事故よりはマシか!。


かくして、相模原に戻ることになったのだが、今回はちょくちょく奈良に帰るつもりである。
おかんが一年前に肝炎をやった時には、ついでにがん検診もして、何てこたないという診断だったのに、8月の末にステージ4のがん。計算があってないやろ!という展開を見れば、一年空けるということが、どのくらいの重いブランクかということを思い知ったから。

おとついにバイトを退職して、いま無職になった。

アタマはいろいろ考えたがる。
あの時のあれはどういう意味だったんだろうということを。
でもそれが、なにか根拠とか論理とかあったとは考えにくい。こっちは一生懸命で、相手はテキトーな拒絶を繰り返してただけだ。意味なんかない。

正直、もうこんな頑張りはしたくない。


あんなに放射能をきらってたのに、今さら南関東に帰ることについて、説明はできるのか?。

事故から5年半、セシウムもだいぶ減っただろう。
シン・ゴジラをみて、ふと潮時を感じた。
お金より命が大事だが、お金がなければ命の維持は難しい。

この辺りが理由。

首都圏はアパートやマンションの空室率がうなぎ上りらしく、入居者がありがたいという状況らしく、部屋を探すのも比較的簡単であった。
事務手続きはすんだ。
あとは荷物をパッキングして、引っ越し屋に託して、ゴミをだして、夜行バスで移動すればいい。

相模原で何をするか。
多分しばらくは、お金を作るために倉庫に戻るだろう。
あとは、新居の契約でもあるんだけど、自治会に入って地元のことを観察する。

鈴鹿で中途半端に終わったことを思うと、どうしようもない気持ちになる。だから、きっと相模原でも子ども関連のこと、外国人関連の情報を集めるだろうな、とは思う。






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