日本人とアジア人(日本人はアジア人)

風邪をひいてから一週間経った。数年前、風邪をこじらせて咳で難儀したが、身体に残ってるらしく、咳き込むようになった。麦門冬湯とお灸が必要。お灸は冗談みたいに身体に合うので本当に助かる。

ツイッタのタイムラインで『日本人はアジア人だという認識が希薄なのではないか』という話がでてたんだけど、日本人なんてまじ黄色いしアジア人以外ないやんけ、という話なのだが、自分の心と相談したら、やっぱり希薄なんじゃないでしょうか、という気持ちがする。
というのは、アジア人というイメージって湿潤な気候とでっかい大河、何処までも続く田んぼ、やたらくる台風、みたいなアジアの持つ風土と絶対に切り離せない生き方があって、大家族とか農村とか『嫁にいく』とかいう、止めようのないサイクルに一体化してる……なのね。で、それを日本人がやってるかと言うと、どんどん希薄やとおもうわけ。

例えば、シンガポールなら奈良よりずっと都会なわけで、今かいたイメージは古くさくて一笑にふされるとおもう。けど、どこかしら『アジア人』てアジアの土地の雰囲気を体現して生きてると思うから、そのあたりを焦点にしたら、日本人て『土地と切り離されてるなあ、アジア人といえるだろうか』と思うわけ。十二分に黄色いのですが。

アメリカナイズされて、食べ物もたいがい洋風で文化的にはアメリカに近いんですという意見もあるけど、そりゃどっちかと言うとアイデンティティを喪失した人が、目の前のホビーに打ち込むことで痛みを忘れようとしてるのに近いと思う。

中国人や台湾人と話してて広々とした開放的な視野がちらりと見えるたびに、この差は何処からくるんだろうと考えた。自分の足の下に地面があって、それがアジアなんだな〜という感覚があるかないかの違いかなあと思う。

日本人にとって手元に残ったアジア感覚て『台風で興奮』とか『お箸で食べると旨い』とか『跡取り息子万歳』とか『村の寄り合いシステム』とか『けっこう手抜き』とか、そんな感じちゃうか?。『足の下にアジア』はむずかしそう。

藤原新也著の『メメント・モリ』の中の一文に

『むかしむかし、そのむかし、ニッポンはアジアのくにでありました』

というのがあるくらいだから、アジア人であることを普段忘れてる日本人て一定数はいるんじゃないだろうか、というのが森の考え。


森個人のことをいうと、じぶんがアジア人だな〜とか日本人だな〜というのは、じつはあんまり考えてない。なんかすごく混血くさい。何処にも属してないような、色んなところに属してるような、じつに中途半端な感じがしています。

余談だけど、森が奈良市内で外国人観光客と話すというと、白人のバックパッカーのカップルが圧倒的に多い。なんでアジア人と話さへんねん、というと、アジアの人たちはファミリーで来てるのと、わりと完結してるのね。話しかける切欠がない。あと、カップルで歩いてる子達は、通り過ぎてから外国人やったかーと気がついたり、外国人やとおもったら奈良県人やったりするの。むずかしい。アジア意識と底が繋がってるのか、表面がにてるのか。日本人はアジア人そのものなのに、アジア人だというのを忘れてるだけなのか。ああ、話が振り出しに戻って来た……。


(足の下にアジア、というアイディアの弱いところは、じゃあ海外、特にヨーロッパとかアメリカなどの別の大陸で暮らしてたら、そんな感覚なくなるんちゃうか、じゃあ海外のアジア人はアジア人とちゃうんかというと、よーわからん。自分が海外に行ってそういう人と交流したことないから。

(KTtunstallの系譜はアイルランド人、スコットランド人、中国人だけど、アジア系とは思わんもんな。エキゾチックですね、程度だもんな。)


                         

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