朝からギターの弦を変えた。さすがに音が良くなるね。マーチンの80/20bronz lightを使ってるのだが、弦の張り替えに少しは慣れて来たので、erixirに戻してもいいかな。(ギターメーカーの推奨品で音がけっこうきらびやかでいいんだが、張り替えの時ブチ切ったりして敬遠してたんだよな。)
奈良弁で考えたことを、標準語に訳して話しても意味が通らない。逆もしかり。日本語で考えたことを、英語やスペイン語で話しても、同じだろうな。奈良弁しか話せなかった時の思考がとおい。奈良弁で会話しててもあんまり同情出来なくなって来た。
— 森亘旦 (@k_m_koutang) 2014, 9月 28
これ、地元の人から見たら『水くさい、東京風ふかしやがって』という感じだと思うけど、標準語って色んなところからやって来た人が便宜上使ってる言葉なので、お道具という側面があって、仕事なんかだと割に便利だったなあと思うわけ。奈良弁だとどーしても、そこのうちの玄関先から通り庭の向こうに話しかけてるようなヴィジョンがつきまとうわけよ。お家の奥さんとか、長女とか。何となく、芋虫とかカタツムリが寄り添いあって枯れ葉の下で冬を越すみたいな感じ。たぶんそれで、森のツイートも奈良弁あんまり出ないのかな、という気がする。たぶん、どんどん減って行くと思う。
自分は奈良弁くらいしか方言は解らないけど、これが播州弁だろうが、北海道だろうが、たぶん共通項は『芋虫みたいに寄り添える言語』なんだろうな。標準語の中で産まれ育った人は、たぶん標準語が芋虫語なんだろうな。
ただ、やはり人生生きてると色んな出来事があるわけで、芋虫みたいに居るよりは、毒を持ったり棘が出たり空飛んだりするような変化があるわけで、そうするとやはり方言にばかり頼れなくなってくる。たぶん、いま森の頭の中で起こってることはそれなんだと思う。
こういうと、頑なな方言話者はやはりプレーンでシンプルな芋虫かよという指摘が来そうだが、まあ、そうなんでしょうねという気がする。だからこそ芋虫語にはノスタルジーがあるんだと思うし。で、いつか先祖返りしたりすんのよ。人生のオプションをはずしてね。で『いろいろあったけど、芋虫みたいな人生が一番幸せ』とか言うのね。たぶん。
311以後の世界をずっとみてたけど、奈良は東北から遠いのもあって、しかも標準語の世界を切り離して考えてるフシもあるので、放射能のこととか、真剣に身に迫った出来事とは思ってない人多いと思う。物理的な距離と言語の距離だよな。でも、そのことで責めることはできない。
いつの日か、国家という枠組みの中で起きた事件だから、責任や影響が出てくる。その時に奈良でぬくぬくしてた人も(←悪いことじゃない)ふと我に返るかもしれない。いまだって本当のところ、悪影響(ex.アベノミクス)は出てるんだと思うけど。

コメント